第7回 − 「情報」を知る責任 −
今朝のニュースで、「株主の自己責任」を問う以上、企業側の「情報開示」のあり方が検討されるべきだ、とのもっともな議論が起こっていることを耳にした。
確かに、今日「安全だ」とされる企業が実は安全でなかったり、最近マスコミでも騒がれた「債務超過ではない」とした企業が、ふたを開けてみると「債務超過」だったりすることが目立っている。
単純に言えば、株主に対して正確な情報が提供されていない訳であり、不正確な情報しか与えられていない株主に対して、自己責任を押し付けるのは全く不合理な話である。責任を問う以上、株主が自ら判断可能な情報が開示されているべきである。
今日、様々に取組まれている行政情報の公開にしても、その本質は国民が行政活動が正常に機能しているのか、不合理な部分はないか、誤った方向に向かっていないか判断可能な情報が公開されることを目的におくものであり、万が一、開示されている情報に誇張が混じっていたり、意見誘導を意図した情報であった場合、主権者たる国民自身が自らの国の行く末を責任をもって判断できなくなってしまうこととなる。
このため、「より正確な情報を流せ」、「わかるように説明しろ」との主張があちこちで起こっている。もっともな主張である。
ただし、先の「債務超過」云々についても、当事者の方々は仮に債務超過であることがわかっていたとしても、そのとおり発表できたであろうか?どこの経営者が、「当社は、負債超過に陥っており、投資対象として適格ではありません。」と世の中に向かって宣言するであろうか?
私はここで、金融機関の姿勢のあり方や行政に携わっている方々の姿勢を云々するつもりは全くない。間違いなく、情報発信の当事者の方々は、それぞれの組織をよりよくアピールするために最善の努力をなさっているに違いない。むしろ、ここに情報を受取る側の責任を感じ取る。
先に、このコラムで「情報の見方は利用者(読者)が決定すべきだ」と言う言葉を紹介した。これはXMLコミッティー議長のJ. Bosak氏の論文にあった言葉である。
我々は、どうも正確な情報と言うものを履き違えているように感じてならない。日本では「正確な情報」ではなく「正確な判断」、または「責任を持った判断」が優先されているように思える。すなわち、「私は、XXさんの(判断)情報に基づいて投資した。従って、私が株式で損をしたのは誤った情報を流したXXさんに責任がある。」との責任すり替え論が大勢を占めているのではなかろうか?
仮に負債超過であった場合においても、その企業が将来性を持った企業であれば、十分投資対象となり得るはずである。株主は「債務超過であるから投資するべきではない。」との(判断)情報よりも、債務超過の金額等を含めた事実と、その企業の将来性を自らの意志で判断できるための情報が必要とされているのであろう。その意味では、Bosak氏の言葉のように「利用者が情報を様々に判断できる仕組み」が重要なのであり、判断の基礎情報となる客観的な事実・数字が提供される仕組みが重要となる。
基礎情報に基づき、投資家が自らの判断によって投資対象を選択できることにより、株主の自己責任が問われることとなるはずである。
米国では1966年の情報自由法(FOIA)が30年ぶりに改訂され、今日のネットワーク時代にふさわしく、電子的情報自由法となったそうである。そこには、米国流デモクラシの基礎としての「すべからく情報は自由に入手できるものとすべきである。」との哲学が根底に流れている。
情報に対して自由に接近できる構造を整えておくことにより、国民は自らの判断をもって政治を見ることが可能となる。言葉を換えれば、「情報を公開している」のであるから問題を発見する責任は国民にあるとの判断があると見るのはうがちすぎであろうか?
基礎となる情報は同じであっても、そこから導かれる判断は人それぞれとなるはずである。そのような判断を可能とすることにより、目端の効く人は、新しいベンチャー企業に対して投資をし、莫大な利益を得る可能性も生まれる。国民等しく同じ判断をすることは決して正しい姿とは言えないであろう。
高度情報時代と喧伝されている今日、日本人の「情報に対する態度」自体を考え直す必要を感じるのは私だけではないと思う。
執筆 菊田昌弘(前代表取締役)