第21回 − ファクト情報とリファレンス情報 −
このところ、茨城県東海村で発生した民間のウラン燃料加工施設での深刻な放射能事故が大きな社会問題となっている。
実際に、10キロ圏内30万人の人々が室内待避を求められたり、350m圏内の人々の域外退去を余儀なくされたり、実際に被害に遭われた方々は、大変なご苦労をなさったと思う。
科学技術庁では、今回の臨界事故の深刻さを国際尺度で上から4番目の「レベル4」と暫定評価したそうである。また、この事故の報道の中において、シーベルトという私自身聞いたことのない用語が何度も使われてきた。もちろん、私自身はいくつのシーベルトが安全であり、自然に暮らしていて毎日何シーベルトの放射線を浴びているのか承知していないし、レベル4がどれだけ深刻で、レベル5よりもどれだけ安全なのか皆目見当もつかない。
その後のニュースでも、「~キロ圏内では、放射線量が基準値以下となり安全が確認された。」とか、「~では、一日に許容されている基準値の~倍の放射線量がある。」などの情報が流れている。
一方、「基準値とは、何をもって定められたか?」、「基準値を超えた場合に、どのような障害が懸念されるのか?」、「基準値以内であれば、毎日放射線を浴びても安全と言えるのか?」などの情報は、少なくとも私の知る限りにおいては見あたらない。
ガソリンスタンドで給油中に見たスポーツ新聞に記述されていた記事では、近隣に立地した外国企業の経営者は、「なぜ、日本人はここまで平静でいられるのか?」と言って、すぐに国外退去してしまい、日本人の従業者がビジネスに支障を来していると報じられていた。
おそらく日本人は、「当局が定めた基準値は、正しい基準値であり、当局が安全と発表した以上、安全である。」と「当局の判断に自らを委ねた」のであり、外国人ビジネスマンは自分の判断で待避したのであろう。
ここに、「情報に対する彼我の違い」を感じるのは、私だけであろうか?
長きに亘ってデータベース事業に少しく関わってきた立場としては、常に疑問に思っていたことが、この事故を契機に再び情報ニーズの違いを改めて感じてしまう。
データベース事業が提供するのは、本来「事実(ファクト)」情報である。より正確な情報を迅速に提供することが目標の事業である。その前提には、より多くの事実情報を客観的に提供し、利用者のさまざまな判断に役立てて戴くことに使命がある。逆に言えば、判断は利用者に委ねるとの性格も持つ。
一方、我が国において重要視される情報は今回の事故を見ても明らかなように、「事実(ファクト)情報」ではなく、「当局がどのように判断したか?」、「だれが、その判断の責任を負うのか?」の「典拠(リファレンス)情報」とされる。その証左として、「安全」宣言がだされて以来、当地において本日~シーベントとなったとの情報は全く見あたらない。見あたらない以上、安全であると考えて良いのかどうかも、私は知らない。
ファクト情報とは、それを安全と判断するか否かに関わりなく、「実際、どうなのか」を表すものであり、それを判断する最終的な責任は本人に委ねられるものである。
決して、問題を荒立てる意味で言うのではないが、現状においても未だ微量なシーベントの放射線量が放出されており、結果的に何らかの障害が発生したと仮定したら、その責任は「安全宣言」した当局が負うべきものなのか?負えるものなのか?疑問が残る。
今日、ネットワーク社会である。また情報社会ともされる。情報は大量に、瞬時に交換することができる時代である。情報社会に生きる世代が身につけて置かなければならないのは、大量な情報の中から自分が必要とする情報を抽出する能力とともに、その情報を、自らが判断するという態度が重要となろう。例えば先頃成立した「情報公開法」は、「誰が、どのように判断したか?」を公開することではあるまい。個々人が判断するに必要な行政情報が入手できることに意味があるのではないだろうか?また、その判断が、各々の人々によってさまざまになるからこそ、デモクラシの意味がでてくるとも考える次第である。
データベース事業に関わる立場としては、バイアスのかからない「事実情報」を収集し提供していくことを使命として再確認しているところでもある。
執筆 菊田昌弘(前代表取締役)